『活かし合いの法則』

ブログをご覧頂いております皆様、こんばんは。

 

本日は、二宮金次郎(尊徳)の七代目子孫である中桐万里子さんがお書きになった 『二宮金次郎の幸福論』 という書籍の中から、特に心に響いたお話を、ご紹介させて頂きます。

 

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(前略)

肉眼で見れば、ねこがねずみを食い、へびがかえるを呑むのだが、

心眼で見れば、ねずみが化してねことなり、かえるが化してへびとなるのだ。

(後略)

 

[二宮先生語録] *378

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このお話は、心眼と肉眼のテーマでもありますが、わたしはそれ以上に金次郎の世界観がかいまみえる面白いお話ではないかと感じました。

シンプルに言って、「ねこがねずみを食べる」 ととらえるのは、世界を弱肉強食や競争の原理でみる視点です。

ところが 「ねずみが化けてねこになった」 ととらえるのは、世界を共存共栄や助け合い(共生)の原理でみる視点といえるでしょう。

 

科学的な見地から、自然は弱肉強食を原理にして動いていると信じられてきた歴史があります。

たとえば、何億という精子のうちのたった1つしか卵子にたどりつけないという生命誕生のできごとを、勝負や競争の象徴ととらえてきたこともあります。

しかし、近年の科学ではこれを疑問視する声もあがっています。

その見地からは、精子の減少による少子化や不妊率の高まりという事態を説明できないからです。

闘う相手が減ればむしろ勝利を得やすくなるはずなのに、現実はそうではない。

一体なぜなのか…。

 

この現象を、山登りにたとえた方がいました。

高く困難な山登りをしようとするとき、たった一人で登り切ろうとするのはとても難しいことです。

けれどもし、途中で余計な荷物をもって下山してくれるような仲間がたくさんいれば、考え得るさまざまな備えをして出発でき、山頂にたどりつける確率はぐっと高まります。

これと同様に、実は山頂(卵子)にはたどりつけない何億個もの精子たちは、蹴落とし闘ってきた敵ではなく、むしろたった一人を山頂に届けるために協力してきた仲間だったのではないかととらえるのです。

 

ねずみは、ねこに敗北した弱者なのか。

そうではなく、ねこを生かすために命を捧げたねこにとっての最大の味方なのか…。

冗談めいた話のようですが、それでも、世界を活かし合いの法則でとらえつづけた金次郎の一端を、鮮やかにみることができるお話でもあるのかなぁと感じます。

 

中桐 万里子 著 『二宮金次郎の幸福論』 より

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二宮翁は、山川草木全てに徳(持ち味・良さ)がある、即ち 「万象具徳」 という自然観をお持ちでした。

これは、お釈迦様の説く 「悉皆成仏(全てのものは仏の現われである)」 と相通ずるものがあります。

遺伝子工学の解明するところによりますと、動植物の遺伝情報DNAの記号は、全て A(アデニン)、T(チミン)、C(シトシン)、G(グアニン)の 4文字 で書かれているそうです。

まさに、「生きとし生けるものは皆同じ」 ということが、近代科学の先端をゆく遺伝子工学によっても証明されているのです。

 

二宮翁の語る 「万象具徳」 は、自然現象を含む森羅万象全てに徳(持ち味・良さ)あり、という概念です。

この概念ゆえに、二宮翁は 『一円観』 という ものの見方・考え方 に到達しています。

『一円観』 とは、「この世の中で相対するものは全てが互いに働き合い一体であるから、切り離して見る・考えるのではなく、両方を合わせて一つの円とし、一つの円の中に入れて見る・考える」 というものです。

起こった出来事について、相対する 「ものの半円」 を見て判断するのではなく、その相対する半円を融合(一円融合)させて判断することの大切さ、を改めて感じました。

 

花 無心にして 蝶を招き

蝶 無心にして 花を尋ぬ

 

by 良寛和尚

 

この世は 心眼で観ると 『活かし合いの法則』 で成り立っている と感じている、最近の私。

 

以上、しばさきでした a.clover.gif

 

『有り難し』

ブログをご覧頂いております皆様、こんばんは。
本日は、筑波大学の名誉教授である村上和雄さんがお書きになった 『幸せの遺伝子』 という書籍の中から、特に心に響いたお話を、ご紹介させて頂きます。

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『ありがとう』 の語源は、『有り難い(有り難し)』 という言葉です。
これは、文字通り 『有ること』 が 『難い』 、つまり 『存在することが難しい』 という意味です。
本来は、『めったにない』 や 『珍しくて貴重である』 ことを表しました。

実は、『ありがとう』 は、仏教に由来した言葉です。

お釈迦様の教えを弟子たちが纏めたとされる 『雑阿含経』 の中に、『盲亀浮木の譬え』 という有名な話があります。

ある時、お釈迦様は阿難という弟子に、
「そなたは人間に生まれたことを、どのように思っているか。」
と尋ねられました。

「大変、喜んでおります。」
阿難がそう答えると、お釈迦様は、重ねて尋ねられました。
「では、どれくらい喜んでいるか。」

阿難は答えに窮しました。

すると、お釈迦様は、一つの譬え話をされました。

「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その亀は、百年に一度、海面に顔を出す。
広い海には一本の丸太が浮いている。
その丸太の真ん中には、小さな穴がある。
丸太は、風に吹かれるまま、波に揺られるまま、西へ東へ、南へ北へ、と漂っている。

阿難よ。
百年に一度浮かび上がる、その目の見えない亀が、
浮かび上がった拍子に、丸太の穴に、ひょいと頭を入れることがあると思うか。」

阿難は驚いて、答えました。
「お釈迦様、そのようなことは、とても考えられません。」

「絶対にない、と言い切れるか。」
お釈迦様が念を押されると、
「何億年、何兆年の間には、ひょっとしたら頭を入れることがあるかもしれません。
しかし、『ない』 といってもいいくらい、難しいことです。」

阿難が答えると、お釈迦様は、
「ところが、阿難よ。
私たち人間が生まれることは、その亀が丸太の穴に首を入れることがあるよりも、難しいことなのだ。
『有り難い』 ことなのだよ。」
と、教えられたのです。

私たちは、人間として生まれてきたことを当然のことのように思ってしまいますが、人間としてこの世に生まれてくることは、何億年、何兆年に一度巡ってくるか否か、というくらい稀なことであり、『有り難い』 ことなのだよ、 とお釈迦様は説いている訳です。

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村上和雄さんは、こう語っています。
「この宇宙に、1個の生命細胞が偶然に生まれる確率は、
宝くじを買って、一億円が百万回連続で当たるくらい稀なことだ、と言われています。
その細胞を、私たち人間は1人につき60兆個も持っている。
それほど、私たちの存在は、『有り難い』 ことなのです。」

私たちが人間として生まれてくることは、気の遠くなるくらい、稀で奇跡的なこと。
それなのに、私たちは、日頃 些細なことに目くじらを立てたり、不平不満を言ったりしてしまいます。
しかしながら、この 『奇跡の連続』 という事実を謙虚に受け止めた時、自然と感謝の気持ちが湧いてきます。

 

『 裸にて 生まれてきたに 何不足 』     by 小林 一茶

 

生まれた時は、何もなかった。
元々何もなかったのだから、何に執着する必要があろうか。
(本来無一物)
いや、元々何もないと思っているが、手もあれば、足もあるし、息もできる。
こんなにも 『有り難い』 宝物を、私たちは無尽蔵に持っているのだ。
(無一物中、無尽蔵)
ちなみに。

感謝をした時というのは、脳内に“ベータエンドルフィン”が大量に分泌されるそうです。
[幸せ:セロトニン、嬉しい・楽しい:ドーパミン、感謝:エンドルフィン、愛情:オキシトシン]

これにより、自律神経のバランスが整えられ、免疫力が高まります。
加えて、脳の記憶回路の活性化にも繋がることから、集中力・記憶力・創造力も高まるそうです。

また、感謝をした時には、脳波が“シータ波”になるそうです。
[デルタ波:~4Hz、シータ波:4~8Hz、アルファ波:8~13Hz、ベータ波:13~30Hz、ガンマ波:30Hz~]

脳波が10Hz以下の状態ですと、体内が活性化して血液も弱アルカリ性になる、と言われています。
“シータ波”の状態であれば、所謂、自然治癒力が高まるそうです。
改めて、今ここに存在している 『有り難さ』 を日々感じて生きようと誓う、今日の私。

 

以上、しばさきでしたa.sun.gif

 

『心の眼を開いて生きる』

ブログをご覧頂いております皆様、こんばんは。

 

本日は、いつも愛読させて頂いております『致知』に掲載されております記事の中で、感動のあまり毎日読んで自分を奮い立たせているお話を、勝手ながらご紹介させて頂きます。

 

「一念、道を拓く」 ~月刊『致知』11月号総リードより一部抜粋~******************************************************************************************

その少女の足に突然の激痛が走ったのは、三歳の冬である。

病院での診断は、突発性脱疽。

肉が焼け骨が腐る難病で、切断しないと命が危ないという。

診断通りだった。

それから間もなく、少女の左手が五本の指をつけたまま、手首からボロっともげ落ちた。

悲嘆の底で、両親は手術を決意する。

少女は、両腕を肘の関節から、両足を膝の関節から、切り落とされた。

少女は、達磨(だるま)娘と言われるようになった。

 

少女七歳の時に、父が死亡。

そして、九歳になった頃、それまで少女を舐めるように可愛がっていた母が、一変する。

猛烈な訓練を始めるのだ。

手足のない少女に着物を与え、

「ほどいてみよ」

「鋏(はさみ)の使い方を考えよ」

「針に糸を通してみよ」。

できないと、ご飯を食べさせてもらえない。

少女は、必死だった。

小刀を口にくわえて鉛筆を削る。

口で字を書く。

歯と唇を動かし、肘から先がない腕に挟んだ針に、糸を通す。

その糸を舌でクルっと回し、玉結びにする。

文字通りの、血が滲む努力。

それができるようになったのは、十二歳の終わり頃だった。

 

ある時、近所の幼友達に、人形の着物を縫ってやった。

その着物は、唾(つば)でベトベトだった。

それでも、幼友達は大喜びだったが、その母親は「汚い」と川に放り捨てた。

それを聞いた少女は、

「いつかは、濡れていない着物を縫ってみせる」と奮い立った。

少女が濡れていない単衣(ひとえぎぬ)一枚を仕立て上げたのは、十五歳の時だった。

 

この一念が、その後の少女の人生を拓く基になったのである。

 

その人の名は、中村久子。

後年、彼女はこう述べている。

「両手両足を切り落とされたこの身体こそが、

人間としてどう生きるかを教えてくれた、最高最大の先生であった。」

 

そして、こう断言する。

「人生に絶望なし。いかなる人生にも、決して絶望はない。」

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1937年(昭和12年)4月、中村久子さんは来日したヘレン・ケラーと対面し、口を使って作った日本人形を彼女に贈ったそうです。

その時、袖の下の短い腕と膝から下が義足だった久子さんの身体に触れたヘレン・ケラーは、久子さんの足元に崩れ落ち、彼女を抱きしめると、

「世界の人たちは、私のことを奇跡の人と言うけれど、あなたこそ、真の奇跡の人です」

と仰ったそうです。

ヘレン・ケラーから賞賛された久子さんは、この時初めて泣いたといいます。

それは、褒められたことによる嬉し涙ではなく、気がつくのが遅すぎたことへの悔し涙だったそうです。

長い年月、母親の躾のあまりの厳しさに、恨みこそすれ感謝の気持ちなど抱いたこともなかった彼女が、今、気がつくことができた感謝の気持ちを伝える前に、彼女の母親は既に先立っていたのです。

 

久子さんは、四肢切断という過酷な人生の中で、ずっと、両親や神仏を恨んできたそうです。

しかしながら、晩年には、手足のない身体を「仏さまから賜った身体」と受け止め、「生かされている喜びと尊さを感じる」という感謝の心を持ち、その生涯を終えています。

 

過酷な試練を経た結果に辿り着いた境地が、『あるがままを受け容れる』ということだったのではないでしょうか。

 

久子さんの「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」というお言葉に、「心の眼を開いて生きる」ことの大切さを教えて頂いた、最近の私。

 

『 “ない”ことを極めると、“ある”ことに気づく 』 by 柴崎 智延

 

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『徳川家康の教え』

ブログをご覧頂いております皆様、こんばんは。

 

本日は、徳川家康の数ある貴重な教え(お言葉)の中から、一つ厳選してご紹介させて頂きます。

 

 

「水はよく船を浮かべ、水はよくまた船を覆す。 ただ、このことを、よく心得られよ。」

~ 『明良洪範続編』より ~

 

これは、徳川家康が、二代将軍:秀忠に対して、教え諭していたお言葉だといわれています。

(もともとは、中国の『貞観政要』という古典にある、唐の太宗皇帝のお言葉だそうです。)

 

水は上手に船を浮かべるけれども、その気になったらいつでも船を転覆させることが出来る、という意味です。

また、船は自分の力で浮かんでいるのではなく浮かべて貰っているのだから、感謝しなくてはいけない、という認識でもあります。

 

家康は、決して威張らない殿様だったそうです。

思うに、家臣の上に自分が乗っていることを強く認識している人であったからこそ、家臣をとても大事にしたのではないでしょうか。

 

家康は6歳の時に、今川義元の人質になりましたが、今川義元が織田信長に滅ぼされて、18歳の時に、やっと解放されて帰って来たのです。

 

昔の家臣は、みんな城を見限って農民のような生活をしていたのですが、12年ぶりに殿様が帰って来たということで、城に集まりました。

 

大広間にいっぱいの家臣が集まった時、家康(当時:元康)は、次のように言ったそうです。

「皆の者、よく帰って来てくれた。 私は、皆の恩を一生忘れない。 これから宜しく頼む。」

そして、壇を降り、頭を下げて、一人ひとりに酒を注いで回ったのです。

 

家康は、12年ぶりに帰って来た時に、家臣に向かって頭を下げるような殿様に成っていました。

 

人質の間は、毎日、今川義元にいつ殺されるか分からない状態で生きており、その間に、周りにいる人すべてに好かれるような、媚びない・威張らない・偉そうにしない、というような人格が出来たのです。

この経験によって、誰をも公平に扱い、一人ひとりに尊敬の念で接し、自分が生きていられるのはこの人々のお蔭によるものだ、という考え方に至ったのではないでしょうか。

 

大広間での出来事を見た家臣は、この殿様に仕えよう、この人の為なら命を懸けよう、と決心したそうです。

 

~ 以上、小林正観さんのお話より ~

 

 

『水はよく船を浮かべ、水はよくまた船を覆す』

 

私達は、自分の力だけで生きているのではなく、「お蔭様」 によって生かされているのだ、と改めて気付かせてくれる、とても貴重なお言葉ではないでしょうか。

 

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「利」と「義」の一致

ブログをご覧頂いております皆様、こんばんは。

 

突然ですが、もしも 「世界三大聖人を挙げよ」 と問われた場合、どなたを思い浮かべますか?

一般的には、孔子・釈迦・キリストの三者が、世界三大聖人と呼ばれているようです。

 

(中村不折氏が描いた「孔子・釈迦・キリストの三者会談」)

 

「聖人」ですから、「悟りの境地に至ったお方」・「悟りを開かれたお方」 などと表現出来るのかもしれません。

 

悟り … サトリ … !?

 

恒例の、くだらない “ノリツッコミ的妄想” にお付き合い頂き、大変失礼致しました(苦笑)。

 

話を戻しますと、三大聖人が悟られ残されたお言葉は、それぞれの弟子達が纏め上げ、2,000年以上も経った今でも、永遠のベストセラーとなって読み継がれています。

 

しかし、この三大聖人には、一つだけ違う点があります。

それは、釈迦とキリストは、その生前中に数々の奇跡を起こし、既に仏や神のような存在として崇められておりましたが、孔子だけは、あくまでも一人の人間として、その生涯を全うしたということです。

 

孔子は、幼い頃より幾多の試練に遇いながらも、常に前向きに、ひたすら自己を修めんと歩み続けた人です。

『論語』が多くの人に読み継がれてきたのも、孔子が人間的魅力に満ちているからなのかもしれません。

 

さて、本日は、著名な経営コンサルタントであります小宮一慶さんがお書きになった 『ビジネス「論語」活用法』 という書籍の中から 『「利」と「義」の一致』 という言葉をキーワードとして厳選・要約した内容を、ご紹介させて頂きます。

 

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『論語』 には、「義」 という言葉がよく出てきます。

有名なものに、「義を見て為さざるは勇なきなり」 というものがあります。

「義」 とは、人としての 「正しい行ない」 ということです。

世の中のためにふさわしいこと、と言ってもよいでしょう。

 

また、『論語』 には、「利」 という言葉もよく出てきます。

有名なものに、「利によって行なえば、怨み多し」 というものがあります。

「利」 とは、自分にとって望ましいもの、都合の良いこと、欲しいもの、を言います。

 

経営コンサルタントという仕事柄、私は 「ビジネスで失敗する人」 を多く見てきました。

その殆どの人が、「利」 を追って失敗しています。

「利」 とは、自分にとって望ましいものであり、それだけを追いかけても、周りの人がそれを望んでいるかどうか分からないので、うまくいかないのです。

 

では、「義」 を追えばいいのか。

「義」 だけ追って、「利」 がなければ、単なる自己犠牲になってしまいます。

 

ビジネスを成功させる秘訣は、実はたった一つしかありません。

それは、「利」 と 「義」 を一致させることなのです。

 

つまり、自分にとって望ましいことと、周りの人や社会全体が望ましいことを、一致させるのです。

例えば、ある企業が、良い商品やサービスを適正な価格で提供する。

それ自体は、その企業が望んでいることですが、お客様や社会にとっても望ましいことです。

ですから、「利」 と 「義」 が一致していると言えます。

 

「商売とは儲けることだ」 と思っている経営者も、少なからずいます。

もちろん、ビジネスは、慈善事業やボランティアではありません。

「利」 を犠牲にしては成り立たない世界であるのも、事実です。

しかし、「利益第一主義」 のビジネスは、一時的に儲けることはできても、長続きしないのです。

 

私は、長年、経営コンサルタントとして数多くの企業を見てきましたが、永く繁栄し続けている企業には、一つの共通項があるように思います。

それは、「義」 すなわち 「お客様第一主義」 を目的として、ビジネスをしていることです。

お客様のため、世の中のため、を実践することにより、利益を得ているのです。

 

曹洞宗円福寺の住職をされていた藤本幸邦先生のお言葉に、「人生は串団子」 という非常に含蓄深いものがあります。

串団子に刺さっている団子の数には色々ありますが、「団子が四つ」 というものが主流だそうです。

 

「人生は串団子」 では、最初の団子は、「自分」 になります。

二つ目の団子が、「家族」 や 「恋人」 。

三つ目の団子が、「会社」 など自分が所属する「組織」 。

四つ目の団子が、「社会」 とか 「国」 とか 「世界」 になります。

 

藤本先生は、「その四つの団子の真ん中を、全て串刺しするように生きないとダメです」 と言われます。

 

たとえば、「自分」 という団子を外す。

つまり、「自分」 を犠牲にして、「家族」 や、「会社」 や、「社会」 のためになることをやっても、なかなか続くものではないのです。

それから、「自分」 には良くても、「家族」 という団子を外したり、「会社」・「社会」 という団子を外したりしても、長続きしません。

 

結局、団子は四つ並んでいなければならない。

だから、藤本先生は、「四つの団子の真ん中を、全て串刺しするように生きないとダメ」 と言われるのです。

 

「利」 と 「義」 を一致させるということも、同じことなのではないかと思います。

「利」 と 「義」 が一致するところで行動していれば、自分も楽しいし、周りにいる人にも喜んで貰えます。

そうすると長続きしますし、次第に使命感も持てるようになるのではないでしょうか。

 

それこそが、2,500年前も今も変わらない、「人生の本質」 なのです。

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ある場面で、弟子に 「たった一語で、一生それを守っていれば間違いのない人生が送れる、という言葉がありますか?」 と問われ、孔子は 「それは、恕(じょ)かな」 と答えています。

自分がされたくない事は人にしてはならない、それが恕である、と孔子は説いたのです。

つまり、他を受け容れ、認め、許し、その気持ちを思いやる。

自分の事と同じように、人の事を考える。

それこそが人生で一番大切なことだ、と孔子は教えてくれているのではないでしょうか。

 

最後に、矢部廣重氏のお言葉を。

キリストの 「愛」 、釈迦の 「慈悲」 、孔子の 「恕」 。

どれも共通して、「喜びと感動を与えること」 を説いている、と 私は思うのです。

 

今回ご紹介させて頂いたお話の他にも、『論語』 の中には、皆様にお伝えしたい内容が沢山ございます。

また、折を見て、ご紹介させて頂きたいと考えております。

 

以上、しばさきでしたa.sun.gif

 

『判断ミスはリカバリーすれば良い』

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失敗することはしょっちゅうある。

でも、リカバリーが早い。

「これはいかん」と思ったら、

悩んでいないで、一挙に解決する。

 

永守重信 日本電産社長

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絶対に失敗しない完璧な人間はいない。

どれほど努力して、どれほど慎重に選択しても、失敗をゼロにすることは出来ない。

この事実は、賢者であろうと、普通の人であろうと、変わらない。

 

賢者が優れているのは、失敗した時のリカバリーの早さだ。

多くの人は失敗を恐れて行動が遅れるうえに、いざという時の対応も後手に回る。

賢者は行動が迅速で、ミスへの対応も素早い。

 

向かうところ敵なしのように快進撃を続けている日本電産の永守重信社長も、もちろん失敗する。

それでも、傍目には全く失敗していないかのように見えるのは、リカバリーの早さのなせるわざである。

 

失敗すれば、その事実から逃げたくなり、隠蔽したくなることさえある。

しかし、一番気が楽になる方法は、素早く堂々とリカバリーすることである。

 

【チェックポイント】

CheckMark.GIF 失敗を恐れなくなれば、失敗した時の対応も早くなる

CheckMark.GIF 失敗した事実から逃げると、自分を窮地に追い込むだけである

CheckMark.GIF 失敗のリカバリーは、堂々とすれば良い

 

~「日経ベンチャー」インタビュー記事より~

 

『縁起の法則』

ブログをご覧頂いております皆様、こんばんは。

 

突然ですが、私には姉が二人おりまして、二人とも子供が女の子二人なものですから、私には姪っ子が四人いるんですね。

で、姪っ子四人に私は何て呼ばれているかと申しますと、

「ともくん」 若しくは 「とーもくーん」

です(笑)。

私・・・結構、イイ歳こいちゃってるんですけどね(苦笑)。

 

話は少し飛びまして、しばらく前、ある方に言われました。

「誰かに似ていると思っていたのだけど・・・ 『運命の人』 を観ていて、モックンに似ていると思ったよ・・・。」

はい、有り難く頂きます! そのお言葉(笑)。

そう言えば、遠―い 遠―い昔にも、何回かモックンに似ている説を投げ掛けて頂いたことがあったことを、想い出しました・・・(遠い目)。

まだ、その説は生きている様です(笑)。

( あくまでも、「一瞬、角度によっては見えるよね・・・」 といったレベルですので、怒らないで下さいね(苦笑)。)

 

そんなこんなで、若干気を良くした私、姪っ子達にお願い事をしようと考えました。

「ともくん」 ではなく 「トモックン」 と呼んでちょうだいね!と(笑)。

で、先日、姪っ子達に会う機会がありましたもので、勇気を出してお願いをしてみましたところ、

~数秒の沈黙の後に~

「ト、ト、トモックン・・・。」

と、なんとも腑に落ちていないことバレバレの表情で言われてしまい、オジサン、少し切なくなりました(苦笑)。

結局、その日のうちに、「トモックン」 から 「ともくん」 に呼び方が戻っていた・・・という、どうでも良い話(笑)。

 

 

さて、本日は、タイトルにもあります様に 『縁起の法則』 について、少しお話させて頂きます。

 

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一般的な話として、物理的な次元において 「因果の法則(原因と結果の法則)」 が働いていることは、ご存知かと思います。

因果の法則とは、原因と結果の相互作用のことであり、「原因があって結果が生じる(結果があれば、必ずその結果に応じた原因がある)」 という法則です。

古くは、聖書にある様に、「種を蒔けば、蒔いた通りに実を結ぶ」 とイエス・キリストが例え話を用いて農民達に説明していたことは、有名な話です。

 

この法則について、仏教では、ブッダ(お釈迦様)が解明した 『縁起の法則』 により、説かれています。

縁起の法則とは、「原因は、関わり合い(縁=条件) により、結果になる」 という法則です。

ここに、一粒の籾があったとします。

この籾は春に蒔かれると秋には稲穂になります、と言いたいのですが、ことはそう簡単ではありません。

その間に、日照や雨が必要であり、また、雑草を採って肥料を与え・・・と関わり、条件が合って、初めて稲穂になるのです。

この関わりを 「縁」 と言います。

籾は稲穂になる 「因」 を含んでおり、関わり、つまり条件である 「縁」 によって稲穂になるという 「果」 が出現することになります。

同じ籾でも、この 「縁」 の具合によっては、秋口にたわわな稲穂になったり、或いは、枯れてしまったりするのです。

したがって、縁起の法則によれば、『原因と結果の間には、必ず 「縁」 がある』 ということになります。

 

ブッダは、十二縁起システムを活用し、「なぜ、なぜ、なぜ」 を繰り返すことにより、「生老病死」 という結果の事実には「無明」 という真の原因が存在していることを突き止めました。

 

この法則は、人生にも仕事にも通じています。

どんなものも 「縁」 の介在なしに存在し得ないのですが、大切なのは、「縁」 の具合なのではないでしょうか。

人生でも仕事でも、「なぜ、なぜ、なぜ」 を繰り返すと、最終的に原因が外ではなく内にあることに気付きます。

原因が自分自身だと気付けば、あるべき姿を描き、自分が主体的になって、その関わり(縁)を良いものに変えていけば良いのです。

日頃、「ご縁があって・・・」 と言いますが、私達の人生は、あらゆる方々のお陰で成り立っているのです。

この紛れもない事実に向かい合うと、自ずと謙虚になり、また、自然と感謝の心が滲み出てきます。

どんな状況にあろうと、常に感謝の心を持って関わることが、幸せに繋がる方法ではないでしょうか。

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本日は、冒頭のどうでも良い話が長くなってしまいましたので、また機会を改めまして、ブッダの貴重なお話をさせて頂こうかと考えております(苦笑)。

 

なお、想定しているテーマは、以下の通りです。

■ 『空』 について

■ 『心の構造と機能(前五識~第八・アーラヤ識)』 について

■ 『「苦・集・滅・道」システム(問題解決手法)』 について

 

以上、しばさきでしたa.sun.gif

 

『分かち合う共生へ』

ブログをご覧頂いております皆様、こんばんは。

 

日頃から公私ともに大変お世話になっている、ある企業の経営者の方が、ご自身のブログにおいて、以下の様な記事を書かれておりました。

 

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「奪い合えば、無くなる。 分かち合えば、残る。」

 

今、奪い合う時代に、成っています。

 

「分かち合うこと」

 

震災によって、私たちの心の底深くに、その大切さを、改めて刻み込んだと思います。

そんな一年だったと、思います。

 

年末で、「托鉢」が行われています。

少しのお金などを、出します。

そして、出されたお坊さんでなく、出した人が、お坊さんに向かって 「ありがとうございます」 と言います。

そこにも、分かち合う精神があるのだ、と思っています。

 

「(奪い合えば、足りないが) 分かち合えば、余る」

 

心に刻んで、年末を迎えています。

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このブログ記事を拝見した時、以前目にしたことのある 「三尺箸の譬え」 という仏教説話を思い出しました。

 

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地獄も極楽も食卓を見るだけなら何ら変わりはなく、沢山のご馳走が用意されている。

但し、どちらも三尺(約91㎝)もある長く重たい箸を使って食べなければならない。

 

地獄の住人たちは、先を争って食べようとするが、長く重たい箸を使いこなせず、やがて周囲と争いを起こし、折角のご馳走を食することができない。

その為、いつも飢餓感に苛まれている。

 

極楽の住人たちは、長く重たい箸でご馳走をつまむと、自分より先に向かい合う相手に食べさせてあげ、自分は相手がつまんだご馳走を食する。

その為、いつも楽しく満ち足りた心持ちで暮らしている。

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地獄の住人には、自分の空腹だけを満たせばいいという、狭い視野しかありませんでした。

自分のことだけを考え・行動した結果、自分の為にならなかったのです。

しかし、極楽の住人には、自分たちの姿を上から俯瞰して眺めるという、広い視野がありました。

みんなのことを考え・行動した結果、みんなが幸せになったのです。

 

“人を思いやる・分かち合う” ことが、結局は自分に戻って来ることに繋がる … 地獄にするのも極楽にするのも “人々の心” 次第なのだ、ということを教えてくれる説話ではないでしょうか。

 

先程ご紹介した 「(奪い合えば、足りないが) 分かち合えば、余る」 という言葉が深く心に刻み込まれました、今日の私。

 

~ 時代は 「奪い合う競争から分かち合う共生へ」 移ろうとしている ~

 

 

 

今年は、これが最後のブログ記事更新となります。

 

振り返りますと、「『念』を入れて生きる」という記事にも書きました通り、今年は 『 “今ここ” に集中する』 というのが、掲げたテーマの一つでした。

そんなテーマにピッタリな、とても素敵な言葉に出合ったもので、最後にご紹介させて頂きます。

 

『過去が咲いている今。 未来の蕾で一杯の今。』

河井寛次郎氏(陶芸家)

 

この言葉を心に深く刻み、今後も日々新年・日々新生の覚悟で精進して参ります。

今後とも、宜しくお願い致します。

 

では皆様、良い年越しをお迎え下さい。

 

以上、しばさきでしたa.clover.gif

 

『 受 容 』

ブログをご覧頂いております皆様、こんばんは。

 

本日は、老子の教えの中から 『受容』 という言葉をキーワードとして厳選した内容を、ご紹介させて頂きます。

 

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人間は、望んだ通りに物事が進む様に出来ている。

 

望んでいるのにそうならないのは、自己否定があるか、本当は心の奥でそれを望んでいないかのどちらかだ。

本人が気づいていない望みに対する恐怖心が、深く心に刻まれているのである。

 

これは、 『受容』 の心になれば克服出来る。

 

先ずは、今、望みが実現していないということに 「感謝」 するのである。

心の奥で望んでいる状況が叶えられているのであるから、その状況に心から 「感謝」 する。

それが 『受容』 である。

 

『受容』 の心になると、何が恐怖心の原因となったのかが自然に思い出されてくる。

意識下から意識上に異物が取り出されることにより、深く心に刻まれた恐怖心が解放される。

 

人間は常に 「今」 と 「中心」 に存在しており、その中心点を深めることが 『受容』 なのである。

『受容』 の状態にある時にのみ、万象は自身の求め通りに変化する。

 

「不為而成」  老子 四十七章     「無為而無不為」  老子 四十八章

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草花は枯れ果て、木々は葉を落とし、死んだ様に見える冬こそ、自然界は生命のエネルギーを強化します。

宇宙は、常に創造を前提として、厳しさや崩壊を存在に与えるのです。

土に落とされた種子が、もしも落とされたことで未来を恐怖するのであれば、芽は出ません。

落とされたことの意味を疑うことなく、また、その寒さと暗さを 『受容』 するからこそ、輝かしい花を咲かせることが出来るのです。

 

まだまだ、皆様にお伝えしたい内容はございますが、本日はこの辺りにしておきます。

 

以上、しばさきでしたa.sun.gif

 

「『念』を入れて生きる」

ブログをご覧頂いております皆様、こんばんは。

 

以前、タビオ(株)の会長である越智直正さんがご講演をされた際、聴衆のお一人から 「継続の秘訣は何ですか?」 と質問されたそうです。

越智さんは 「 『朝』 と書いてみて下さい」 と仰り、続けて 「どう読みますか?」 と質問を返されました。

その方が、 「あさ」 とか 「ちょう」 とお答えになると、越智さんは 「十月十日(とつきとおか) もあります」 と仰り、次のようなお話をされたそうです。

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十月十日(とつきとおか) は、人間が生まれるまでにかかると言われている日数です。

だから、人間は毎朝新しい命を貰って生まれ、そして夜眠りにつくのです。

そのまま目覚めないかもしれないところ、翌朝また新しい一日を貰う。

明日があると思わず、今日この一日を大事に過ごそうと思ったら、いつの間にか継続出来ます。

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このお話を聞いた時、上手いことを仰るなぁと思った一方で、量子論 (素粒子や原子核といったミクロな世界の振る舞いを記述したもの) の話を思い出しました。

 

量子論によると、ミクロの物質は “波動でもあり粒子でもある” という 『二重性』 を持ち、 “位置と速度、時間やエネルギーにおいて関係は不確定” という 『不確定性原理』 を持っています。

即ち、ミクロの物質を観測しようとすると、それまで波動だったものが、瞬時にして粒子となって観測されるのです。

 

言い方を変えると、 “不確定なものを意識すると確定(現象化)する” ということになります。

“全ての現実は、沢山の選択肢の中から、思考や想いが選び取った結果である” ということです。

(ちなみに、 「思考は現実化する」 や 「引き寄せの法則」 などの話は、このことを言っています。)

 

この事実から言えることは、

「今という瞬間、ここという場所で、何を選択していくのかが大事」

なのであり、過去でもなく、未来でもなく、今この瞬間に選択していることが全てである、ということです。

 

最後に、私の好きな言葉の一つを。

 

「永久の計は一念の微にあり」

by 安岡 正篤 氏

 

人生は、一念の微(微かな一念)によって決まる、ということです。

どういう一念を積み重ねているか、それが人生の結果になって現れてくる、ということです。

 

『念』 という字は、 『今』 の 『心』 と書きます。

 

過去のことを踏まえるが、捉われない。

将来のことを見据えるが、振り回されない。

今現在、自分の目の前にある (為すべき) ことを、大切にする。

 

『今』 ・ 『ここ』 に集中し、 「 『念』 を入れて生きる」 ことが大切だなぁと再確認した、最近の私…。

 

以上、しばさきでしたa.clover.gif

 

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