『活かし合いの法則』
ブログをご覧頂いております皆様、こんばんは。
本日は、二宮金次郎(尊徳)の七代目子孫である中桐万里子さんがお書きになった 『二宮金次郎の幸福論』 という書籍の中から、特に心に響いたお話を、ご紹介させて頂きます。
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(前略)
肉眼で見れば、ねこがねずみを食い、へびがかえるを呑むのだが、
心眼で見れば、ねずみが化してねことなり、かえるが化してへびとなるのだ。
(後略)
[二宮先生語録] *378
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このお話は、心眼と肉眼のテーマでもありますが、わたしはそれ以上に金次郎の世界観がかいまみえる面白いお話ではないかと感じました。
シンプルに言って、「ねこがねずみを食べる」 ととらえるのは、世界を弱肉強食や競争の原理でみる視点です。
ところが 「ねずみが化けてねこになった」 ととらえるのは、世界を共存共栄や助け合い(共生)の原理でみる視点といえるでしょう。
科学的な見地から、自然は弱肉強食を原理にして動いていると信じられてきた歴史があります。
たとえば、何億という精子のうちのたった1つしか卵子にたどりつけないという生命誕生のできごとを、勝負や競争の象徴ととらえてきたこともあります。
しかし、近年の科学ではこれを疑問視する声もあがっています。
その見地からは、精子の減少による少子化や不妊率の高まりという事態を説明できないからです。
闘う相手が減ればむしろ勝利を得やすくなるはずなのに、現実はそうではない。
一体なぜなのか…。
この現象を、山登りにたとえた方がいました。
高く困難な山登りをしようとするとき、たった一人で登り切ろうとするのはとても難しいことです。
けれどもし、途中で余計な荷物をもって下山してくれるような仲間がたくさんいれば、考え得るさまざまな備えをして出発でき、山頂にたどりつける確率はぐっと高まります。
これと同様に、実は山頂(卵子)にはたどりつけない何億個もの精子たちは、蹴落とし闘ってきた敵ではなく、むしろたった一人を山頂に届けるために協力してきた仲間だったのではないかととらえるのです。
ねずみは、ねこに敗北した弱者なのか。
そうではなく、ねこを生かすために命を捧げたねこにとっての最大の味方なのか…。
冗談めいた話のようですが、それでも、世界を活かし合いの法則でとらえつづけた金次郎の一端を、鮮やかにみることができるお話でもあるのかなぁと感じます。
中桐 万里子 著 『二宮金次郎の幸福論』 より
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二宮翁は、山川草木全てに徳(持ち味・良さ)がある、即ち 「万象具徳」 という自然観をお持ちでした。
これは、お釈迦様の説く 「悉皆成仏(全てのものは仏の現われである)」 と相通ずるものがあります。
遺伝子工学の解明するところによりますと、動植物の遺伝情報DNAの記号は、全て A(アデニン)、T(チミン)、C(シトシン)、G(グアニン)の 4文字 で書かれているそうです。
まさに、「生きとし生けるものは皆同じ」 ということが、近代科学の先端をゆく遺伝子工学によっても証明されているのです。
二宮翁の語る 「万象具徳」 は、自然現象を含む森羅万象全てに徳(持ち味・良さ)あり、という概念です。
この概念ゆえに、二宮翁は 『一円観』 という ものの見方・考え方 に到達しています。
『一円観』 とは、「この世の中で相対するものは全てが互いに働き合い一体であるから、切り離して見る・考えるのではなく、両方を合わせて一つの円とし、一つの円の中に入れて見る・考える」 というものです。
起こった出来事について、相対する 「ものの半円」 を見て判断するのではなく、その相対する半円を融合(一円融合)させて判断することの大切さ、を改めて感じました。
花 無心にして 蝶を招き
蝶 無心にして 花を尋ぬ
by 良寛和尚
この世は 心眼で観ると 『活かし合いの法則』 で成り立っている と感じている、最近の私。
以上、しばさきでした